ハロー、全ての答えさん -ねじの人々 第6話に寄せて-

「四十二だと!」ルーンクォールが叫んだ。「七百五十万年かけて、それだけか?」
「何度も徹底的に検算しました」コンピュータが応じた。「まちがいなくそれが答えです。率直なところ、みなさんのほうで究極の疑問が何であるかわかっていなかったところに問題があるのです」

生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え - Wikipedia

ねじの人々 第6話がおもしろい展開を見せている。

ねじの人々 というのは若木民喜の連載している哲学マンガ。デカルトだのの所謂「哲学」を作者自らが理解した形で表現していく、解説とも入門とも違う切り口のマンガ。とはいえ、かなりわかりやすい。初学者にもきっとおすすめ。第6話では「より偉大な漫画とは?」を題材に客体的真理/主体的真理についての考えが表現されていく。

哲学食んだ事のある人ならほうほうって感じの流れじゃないですかね。

第6話の面白いところは、漫画の作者(若木民喜とは名乗らないが)が現れて、主人公と対話をする部分だ。


主観的な、自分1人にしか感じられなくとも自分にとって特別な「偉大さ」と、たとえ自分には強く感じられなくとも多数の人間が理解/共有/納得できる「偉大さ」。そのどちらがより偉大なのか、より「答え」に近いのはどちらなのか。対話の中で、主人公は思い悩む。自分にとっての「答え」は他の誰かに証明してもらわなければいけないものなのか…?

漫画の作者はそうではないと告げる。

ボクは…

神のみぞ知るセカイ」で真実の一端を感じた。

自分の気持ちもキャラクターの気持ちも読者の気持ちも全部わかった。

漫画のセカイを全て見渡せた。

あの瞬間、ボクはマンガの神様に会った。

「お前が見たのも真実とは限らないだろ」と返す主人公に対して、「お前も体験したらわかる」「じゃあな」と返す作者。


メタい。

すごくメタい。

「作者が作品世界に登場して主人公と話す」と言ってしまうとかなりベタな、しかもペンをもったデカい手というナイーブな表現ともとれる。でも、これはかなり複雑にメタい表現だ。

超越的体験から<真実>に接触する。その超越的体験が、自己、読者、非実在なキャラクターまで含むセカイの理解/接触からもたらされたというエピソード。そして超越的体験が、非実在なキャラクターにも訪れ得るという話を、<真実>にいかに接触するかという文脈で非実在なキャラクターとの対話で行っている。

やっぱり複雑!ここで、おもしろポイントは大きく3つ有るように思う。

非実在キャラクターへの理解が超越的体験たりうること

非実在キャラクターの気持ちがわかる/わかった気がする体験は今般の日本ではありふれてしまったようにも思える。
俺の嫁」は言うにしかず。終わった作品のキャラクターに「あいつは今頃なにしてるかな」と思うふとした瞬間。ボーカロイドのライブで訪れる「初音ミクがそこにいる」という感覚、終わった後に沸きあがる「ありがとー!」という感謝の叫び。

でも、それらは超越的体験たり得るんだ。そうなんだ、やっぱりこれすごい事なんだ、と感じられる。キャラクターを作る側の人も、こういう体験をしているんだなあと。セカイのあり得ようもない有様に接触する体験。セカイの一部分たる自分の中に現れる、<このセカイの外側>との接触

超越的体験から<真実>に接触しうること

これは確信犯的な誤読の匂いもするんだけれど、作者の話したエピソードは、主人公のもとめる「答え」に図らずもなってしまっているんじゃないだろうか。

デカルト、カント、フッサールから綿々と続いて(というと当人は怒るんだろうけど)いく流れがウェーバーパーソンズハーバーマスルーマンにと行き着くにあたって、主観的/客観的という枠組み(これも手垢ついた用語だなー)とは別の、再帰的な視座が示されるようになった。
例えば、社会が継続する_ために_社会の<外>が参照されていたり、日常に着地する_ために_<超越的体験>が必要であるような、そのような世界把握をもたらす視座。カリスマや変性意識、ミメーシスといった用語を取り込みながらできてきたその視座。「答え」にアプローチする、より現代的な視座が構築されてきている。

作者のblogでは、ねじの人々で話そうとしているのはハイデッガーぐらいまでという事だったのだが、実はずいぶんスキップして「最新理論」による「答え」に行き着いてしまってるんではないか。

もしそうなら、作者の超越的な体験を作品内で語った事が、作品の行く末や意味を変えてしまったんだとしたら。なんてメタい!(ニーチェに繋げ損なっただけかも...)

非実在キャラクターは超越的体験をし得るか

非実在なキャラクターに主観を感じるという体験は、客観/主観という二項対立がキャラクター「にとって」も適応される状況を引き起こす。
非実在キャラクターは超越的体験をし得るだろうか?

ある意味ではそれはごく普通に可能と言える。多くの作劇はキャラクターに<超越的体験>をさせ、それを読者に追体験させることで感動をあたえるものだからだ。

また、より狭義に非実在キャラクターの気持ちが分かる、という<超越的体験>についても可能だろう。
山本弘などが得意としているように思うが、作品内にさらに虚構世界を導入し、その上で虚構世界を越境する<超越的体験>をキャラクターにさせる作劇もなくはない。イーガンの順列都市あたりも近しいんじゃないだろか。

だけど、作品内により深いメタレベルをもたらすのではなく、作者/読者が登場することで非実在キャラクターに<超越的体験>をもたらすことは可能なんだろうか?非実在なキャラクターに<超越的体験>をもたらすような作者/読者の<超越的体験>は、可能なんだろうか?

非実在キャラクターと作者/読者が相互に理解しあうような――にわかに想像はしがたいが、何か新しい物語世界のとっかかりでもありそうな。