自我という外部記憶装置

攻殻機動隊が原作である映画、イノセンスには、「都市は巨大な外部記憶装置」というセリフが出てくる。現在、人間は多種多様な外部記憶装置を用いていると言えるだろう。コンピューターや、書籍はもちろんそう。その範囲を拡張して、都市であるとか、あるいは文化や歴史、社会そのものも、外部記憶なのだという言い方。これは意味深に思えて、面白い。

では自分自身も、人間の心、意識、自我、そういうものも外部記憶装置の範囲に加えてしまえば。つまり、人間の自我は何か別のものの外部記憶装置にすぎないと思ってみれば。


例えば自分の目の前にあるこの文章。自分の思考を可視化するという目的のためだけに無から作り出され、目的達成のために徐々に成長させられてゆき、誤字があれば削られ…と変化してゆく。あるいは、「何か違う」と思えば全文削除されて無に帰るということもあろう。生まれ、変化し、死ぬ。この文章が生命だとでも?

この文章と自分と同じようなものなのか。だとして、自分を今"書いている"のは一体誰なんだ?産みの親、教師、雇い主、自分の知らない他人、マスメディア、影の支配者、それとも社会そのもの。社会そのもの?それじゃあ全く逆になっているではないか。

たぶん、きっと自分は今誰にも"書かれていない"。少なくとも、自分ではそう信じられる。でも、人の意識を"書ける"ようになったとしたら、一体どんなことが起こるのか。人間が文章を外部記憶とするように、"もっと大いなるもの"が人間を外部記憶とするのか。

この文章は消されることなくここまで来た。たぶん、アップロードされてどこかに流れていく。この文章はしばらくは、消えることはない。が、しばらく変化することもなさそうだ。それは生きてるのか死んでるのか。自分もいつかどこかに流れていくのだろうか。