議論というもの

議論というものについての文章をいくつか、読む。その内の2つ。
http://iwatam-server.dyndns.org/software/giron/giron/index.html
翔ソフトウェア (Sho's) - オブジェクト指向 - コミュニケーション パターン - 議論パターン

上に上げたどちらでも、"議論の目的"、それが討論なのか対話なのかによって異なる目的、何を目指して行うのか、と"議論の態度"、議論を行うに当たってどういう状況/手法を"良し"とし何を"悪し"としてやっていくか、について述べられている。両者とも同様の記述があって(というかそこから対応があると推測している)、曰く議論とは参加者の理解を深めるために行うものであるとか、曰く討論と対話では目的が異なるとか、そういう記述なのだけれど、一方では"議論の目的"が先にあって、そこでの"議論の態度"が考えられている(ように見える)のに対して、他方では"議論の態度"が先にあって、その上での"議論の目的"を考えている(ように見える)(自分には)。

で、なんとなく、両者とも正しくて、"議論の目的"と"議論の態度"というのは相互に前提とされあっているのではないかと思う。そうして"議論の目的"と"議論の態度"が入れ替わり立ち現れること自体が議論を駆動させているのではないか、さらに"議論の目的"と"議論の態度"の入れ替わりながらの立ち現れが生じるのは、両者のズレがそもそもあるせいではないか。そういう理解を、世界把握を、想像する。

だとして、"最も良い議論"というのはどういうものか。

目的の項からスタートするとすれば、それは「良い議論をする」という目的の基に行われる議論ではないか。議論の参加者全てが「良い議論をする」のを議論に望む態度として選び、その為に「良い議論をする」ということを議論の目的に定めて行われる議論ではないか。
今自分が想像しようとしているのは「良い議論とはどのようなものか」というのを求める議論とは異なる。議論の目的、オブジェクトに、その議論の態度、その遂行のスタイルそのものが入り込み続ける形のものを想像している。だから、たぶん、これは始まっていなければ始まらないし、始まっていれば終わらない。そのようなイメージ。

そのようなものを考えたときに、その他の、もっと具体的な目的を"持たされた"議論というのは、相対的に"良くない"議論なのではないか。目的と態度が常に一致し続ける"最も良い議論"に対して、相対的に"良くない"議論は目的と態度にズレが生じ続ける。ズレが生じるからこそ、態度に裏打ちされた目的によって定まる態度によって裏打ちされた目的によって…と議論は遂行されるのではないか。

で、議論の固定点たる"最も良い議論"の周辺にある点からスタートしたとき議論のトラジェクトリは収斂するのしないのカオスだの。みたいな。

で、それはさておき、見聞きした範囲(リアルでは少ない)では議論ってのはリソースの再配分だなあと、思う。再配分されるものはカタルシスやストレスや評価や名誉や色々あるけれども、思考のリソースのやりとりが一番大きいんじゃないだろか。だとしたら、勝ち負けよりも釣れるかどうかってのが大きい?再配分自体に価値を見出す向きもありましょうけれども…。