物語って、それおいしいの?

自分にはもう物語は必要ないのではないかと思っていた。ノッたりモえたりハイったりすることがあっても、情動の振幅と物語の持つ意味やメッセージは切り分けられると思っていた。小説を読んで心が揺れたとしても、それは物語のギミックが影響しているだけ。あたかも、歌詞のない音楽が意味のない感動の振幅をもたらすように。DmGmDmA7。それは悲しいことじゃなくて、悲しい感じがするだけ。
でも、そうではなかった。甘かった。

アイの物語

アイの物語

物語のための自己確証的な物語。人工知能や仮想現実がテーマのSFではあるものの、ガジェット的にはセンスオブワンダーというか目新しさはあまり感じない。だからか、うろうろワンダリングしなくてもどういう世界観で見ているのか、何に目を瞑っているのかは何となく分かる。
物語は静かに立ち上がって、物語達を行ったり来たりしながら徐々に自分のことを物語り、基石となる物語「詩音が来た日」に行き当たってから、最後に物語そのものを自己確証化する。「詩音が来た日」は生と死が触れ合う日常の物語。
ヒトは死にたくない。よく生きたい。よく生きていれば、死にたくない。死にたくないのに、必ず死ぬ。そして死んでしまうのに、死にたくない。だから死ぬのに死にたくないのに死ぬのに死にたくないのに…というループを巡っていれば帰結はない。しかし今度は生きるということが立ち上がらない。ループし続けてはよく生きられない。死んでいるのと変わらない。
だからループを止めて、よく生きようとする。それはリスクを取ること。よく考えないこと。論理を不徹底させること。適当なモデルに住み着くこと。間違うかもしれないこと。間違った結果、よく生きられないかもしれないこと。死ぬかもしれないこと。そしてよく生きられたとしても、最終的には必ず死ぬこと。死という帰結。
生きるということは、死を恐れている"にもかかわらず"死という帰結を受け入れ、かつ死を恐れるが"ゆえに"リスクを取るという、困難なミッション。モチベーションが必要だ。


山本弘先生のSFはサイバーナイト以来…。何年前なんだ。筆致は意外と抑え目?半裸の少女も(あんまり)出てこない。
で、帯に泣けるとは書いてあったけど、これは泣く。詩音がモチベーションを、「理想」を語るシーンがどうにも泣けてしょうがない。その成長を追ってきているだけにその純粋な思いが胸に迫る。ぁぅぁぅぁぅ。「愛するヒトの涙を笑顔に変えたい」というのがベタにツボらしい。
物語の中で何かが「理想」として掲げられていても、現実でのその成否はそれとまったく関係ない。相対主義者が「相対主義者以外の人間にとって相対主義は偽である」と認めることと、相対主義者が「相対主義が偽である」のを認めることとが異なるように。であるのに、物語の中にロールプレイすれば「理想」はやはり素晴らしいのだった。ロジックがメタとベタを同一視しないのに、自分の意識や感情はロールプレイの内部からの「素晴らしさ」を受け取ることができるらしい。TAIもロールプレイを通して、ヒトとは論理的なレベルで違うのに、ヒトを後継することができる。より知的な存在として。そして、ヤサシイを看取る、カワリダネ。
自分が信じていたモデルが、現実にチェックされて、アドホックな仮説を付け加える余地も無く見事にはねられたおかげで、物語だったと気づいてしまったあの時と、そして、そのモデルが間違っていたにもかかわらず、その物語の中で描いた理想の価値は何も変わらないと、物語を信じていたことは無駄ではなかったと気づいたあの時と、物語を生きることの素晴らしさが、とりもなおさず生きることそのものが物語であることを逆照射すると思っている今。
結局『「物語というのはロールプレイによって「理想」の素晴らしさに出会えるという意味で素晴らしい」という物語』だったわけだけれども、その物語をロールプレイすることで、遂行的に物語の素晴らしさに接触できるという構造は、なんだろう、ドラマツルギー自体がセンスオブワンダーなSF?
ともあれ、物語って悪くないなあ、と思いました。もっと小説とか読んでもいいかもしれない。