「詩羽のいる街」感想

あらすじはなし。ネタバレもなし。たぶん。


連想されるのは"パラノイアSF"という言葉。
といっても、この言葉に自分は個人的にしか通じない意味合いを持っていて、連想されたのはその意味合いにおいて。
"パラノイア性"、パラノイアっぽさ、を自分は「現実はありえない、_な_の_に_、現に現実はある」という現実把握からくると理解している。上に書いたように、極々個人的に、そう了解している。

現実のありえなさに、接する人がいる。数歩の差で愛する人を喪う人。何も持たないために更に失う人。善行のために憎まれる人。流星にうたれて死ぬ人。どこからも呼ばれていないエラーメッセージを見る人。UFOを見る人。幽霊を見る人。物理的に確率論的に演繹的に帰納的に論理的に常識的にありえないことにありえた人。少年と少女が手と手をとって世界を火の手から救うようなありえなさに曝された人。もっと大雑把に言えば、言葉で表現できる分には、言葉で表現できる程度にはありえるということなのだから、真にありえないことのありえなさは、言葉にできない。見ることも聞くことも語ることも伝えることも、触れることも感じることも知ることもできない、接することのできないありえないものに、接する人がいる。そういう人にとって、世界はありえず、なのにありえるだろうと、そう理解する。

よく考えてみれば、「詩音が来た日」以来どの作品にもそう感じ続けているのだけれども、山本弘作品に注入される(しばしば理想主義的と評される)設定のありえなさは、「現実はありえない、_な_の_に_、現に現実はある」から「現実はありえない、_だ_か_ら_、現に現実はある」にパラノイア性を逆転させるためにあるのではないか。音楽を切り替えるように。一音足して、ハーモニーを書き換えるように。そして、あ、これはネタバレか?、その逆転そのものに、作中で言及するために。