互換性の"見える"立場は実在するか

意識の謎を解いてみました - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだを読む。
"Qualiaの不在"の議論に非常に似ているように感じる。オチは違うのだけれども。
入不二基義流の考え方でいくと、最もつっかかる部分はクラス(A),(B)の互換性のなさをどのようにチェックするか、という部分になるのではないかと思う。
(B)からみて"根本的に互換性がない"ものが"動的状態"だとか"記述している"というようなものに見えるのかどうか。逆に(B)から見て"動的状態"だとか"記述している"ようなものであるとすると、"根本的に互換性がない"ということがあり得るのか。
要するに、私たちと根本的に異なるものの存在は、私たちにとって存在足りえるのか。
これはデイヴィッドソンの概念枠に関する議論を援用した問い立てなのだけれども、議論の過程も援用するならば、答えは、NO(かつ限界をもったクラス(B)の実在性も否定されるはず)。
でまあ、それはさておき、印象的なのが互換性の無さに至る最後のステップが「こっちには矛盾があるけれどもこっちには矛盾が無いのでこっち」という形であることで、無矛盾性選好というか、合理的なステップを踏んでいること。デイヴィッドソンの議論にしてもそうなのだけれども、結局は至るところ(局所的なものとしても)合理と論理だらけだ。合理とか論理とかから離れた存在がありうるか、という議論も合理と論理から離れられないというのは、哀しくも不思議。