矛盾はどこにあるか

楚人に盾と矛とをひさぐ者あり。これをほめていはく、「わが盾の堅きこと、よくとほすものなきなり。」と。また、その矛をほめていはく、「わが矛の利なること、物においてとほさざることなきなり。」と。あるひといわく、「子の矛をもつて、子の盾をとほさばいかん。」と。その人こたふることあたはざりき。

矛盾 - Wikipedia

ここに矛盾があるのだとして、矛盾しているのは、何なのか。楚人の2つの言葉か。それとも或る人の言葉か。楚人自体が矛盾しているのか。むしろ或る人の方か。あるいはこの状況全体か。ひょっとして、そもそも矛と盾が矛盾しているのか。矛盾は矛盾しているか。矛と盾のペアが(盾と矛も?)矛盾しているのだとして、えーと、その矛でその盾を突いたら、どうなるのですか?
矛盾はさておき、無矛盾性はどこにあるか、といえばそれは解釈の中にあるのだと思う。ホフスタッターの言を借りれば「無矛盾性とは形式システムそれ自体の性質ではなく、そのシステムに対して提案される解釈に依存している」*1と。ゲーデルの第二不完全性定理がらみの話なんかでも、体系の無矛盾性をあらわしていると「解釈」される文はいくつもありえて、中にはその体系内で証明されてしまうものもあるのだとか。(もちろん、"自然な"解釈による文があって、最低1つは証明できない)
矛盾、あるいは矛盾性もやっぱり解釈の中にあるんじゃないだろうか。矛盾してると思っているから矛盾している。というか。矛盾を解釈している人の思いの中にだけ矛盾はあります。という。全ての矛盾は脳内矛盾なんじゃないだろか。
だとして、例えば、何かを読んでいてその主張の中に矛盾を見出す、という経験があったときに、悪いのは自分なんだろうか。それを書いた人は矛盾に立ち会わなくて済んでいたのに、その矛盾に立ち会ってしまった自分が。ま、矛盾していて何が悪いという向きもありましょうけれども。(矛盾許容倫理?)

Aと非Aが両立していると解釈してしまうその心、それが矛盾を生み出しているのですとかいうと、花の魔法使い。(「矛盾」を無理矢理弁護 — faireal.net最後段)。

矛盾は存在するか。 - 無方研日記

*1:ゲーデル,エッシャー,バッハ」より