何を言っているのかわからない。

最近、何を言っているのかわからないということを考える。
え、あ、うん。何を言っているのかわからない。でも、じゃあ、何を言っているのかわからないが何を言っているのかわかるのは、どんなとき
例えば、宇宙は何を言っているのかわからないから始まったのでは無いかとか。定義も原理も概念枠も命題のレベルも現象も観測もシステムもなく、何を言っているのかわからないから始まって、全てはそれを説明するためにこうなっているんじゃないか、とか。宇宙はそれをずっと説明中で、長い長い脚注の中に自分達はいる、とか。
だとして、何を言っているのかわからないが分かってしまったら――宇宙よりも先に分かってしまったら――気分がいいだろう、とか。「始めに言葉ありき」じゃあ、それも言葉で、つまんない、し。


普通、理由とか原理とかは、それ以上進めないから理由や原理足りえるのだと思う。なぜスピンがこの向きだったのか。スピンの向きは確率に応じて決まるとしか言えない、とか。
でも、宇宙自体が宇宙の存在する原理や理由を決めていないのだとしたら。しかも、にも関わらず、一旦決まった(?)法則やイデアは原理であり理由であり、確固たる必然性を持つようになっていたとしたら。
それ以外に有り様がない。そうでなくてもよかったのに、それ以外に有り様がない有様である。根源的に未規定なのに、現にそうなっている。理由が無いのに、それ以外ではありえない。底が抜けた必然性。という。
あるいは、各論としての法則は全て定義されているのに、総論としての、TOEみたいなのは未定義になっているとか。


逆に、原理的なものが定まっているということは、どういうことなのか、というような事も思う。
遺伝的アルゴリズムだけでえんえんと、例えば囲碁をやらせる。勝った方は残り、負けた方はランダムに構造が書き換わる。そういう実験を重ねて、何度やっても淘汰の末にある特定の構造が必ずできるようになっていることがわかったとしたら。そういうことが分かったとしたら、それは一体何についてわかったことになるのか?
例えば量子力学だけから統計力学を導くという話があるけれども、量子力学があればそこには必ず統計力学的な構造が現れるのだとして、その性質は(性質と呼べるならば)一体何の持っている性質なのだろう。
例えば宇宙に無数の生命(とは何か既知ではないけれど)が存在し、無数に知的(同じく既知でない)生命体が無数に存在しているとして、例えば知的なものは必ず同じ構造の知性を帯びることがわかったとして、それは一体、何についてわかったことになるのだろう。
宇宙が存在すれば必ず特定の物理法則を持つことがわかったとして、それは一体、何についてわかったことになるんだろう。


根源的なものが規定されているのか未規定なのか、何がわかればわかったことになるんだろう。