愛知万博の飲食物の値段

高いんだとかそれはデマなんだとかそれもデマなんだとか色々ありつつ、徐々に正確で詳細な情報となっていっている模様。大手メディアと違ってインターネットは訂正能力のあるメディアなんだと感じて、心強い。

一方でなんでこんな情報に関してデマがとびかったりするのかとも思う。その、つまり会場内の飲食物の値段なんて、そんなに要度の高い情報なんだろうか?


大手メディアが無くなってしまって、全部の情報をこんな風に相互検証しながら確度をあげていくようになってしまったとしたら、そのやり方は無駄が多い。無駄が多いだけではなくて、重要ではない情報にもデマが出やすくなってしまうのではないかと思う。

つまりおおざっぱな見方ではあるけれども、大手メディアの流す誤情報には意図があり、それ故に情報の重要度と誤情報の出やすさには相関があると考え、一方でインターネットで流れる誤情報には意図がなく、情報のセンセーショナルさが誤情報を引き出すと考えている。今回の例でいえば、「弁当を廃棄している」といった部分が誤情報を喚起する刺激になったのではないだろうか。

この見方では一方で、例えば「性犯罪者の再犯率は他の犯罪より非常に高いことが確認された」という誤情報には意図があるということになるが、じゃあどんな意図があるかというとさっぱりよくわからない。大手メディアという括りを逆に神聖視しすぎなのかもな…。

何か深い意図を持ってつかれた嘘には対抗する価値があるが、愉快犯の嘘にいちいち付き合うコストは無駄だと単純に思っていいのだろうか。狼少年の寓話の場合狼少年が最後に「狼が本当に来たぞ!」と言って食われた後、村はどうなったのだろう。嘘をつかないように逐一訂正、矯正するコストが被害に見合わなければ無視していいという事か。

それとも羊飼いが一人しか登場してないことが問題か。メディアの多様化度の大小と訂正圧力(?)の強弱の2要素での図式化が必要か…?うーむ。