矛盾と論理

http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama/20070531/1180573616
だとして、バカボンのパパがすごいのは、バカボンのパパかつ非バカボンのパパにならないところなのだ。「わしはなにがあってもバカボンのパパなのだ」「パパー!!」

矛盾を偽と等価とみなすのは古典論理だとして、現代(!)論理ではどうなんだろう。等価とみなす感じはちょっといずい。矛盾する一歩手前で立ち止まって、それでも他に行く場所がないので偽にたどり着いてしまう感じ。というか論理的強制力自体が妙に感じるというか、別に、帰結しなくてもいいじゃないか、とか。演算子なんていらないよ、とか。シマウマがウマの内ならば、非文だって文のうち。ええじゃないかええじゃないか。

虚数や超自然数の生まれた源が矛盾なのだと思えば、矛盾は概念世界を拡張していくものなのかも。あるいは世界把握の未知なる広がりの予兆として矛盾は立ち現れる、とか。そんなに都合よくはないか。どんな矛盾が現れても、拡張することなく受け止められる場所が論理の終わり、なの、かな。